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ニャルラトホテプ

NYARLATHOTEP

H・P・ラヴクラフト H.P.Lovecraft

大久保ゆう訳




 ニャルラトホテプ……這い寄る混沌……残ったのはもうわたしだけ……この何もない空を聞き手にして、お話ししようと思います。

 そもそものことは、はっきりとは思い出せません。でも何ヶ月か前です。みんなひどくぴりぴりしていました。世の中がひっくり返ろうとしているところへきて、なぜだか強く身に危険を感じて不安になる――あたりが、どこもかもが危なかったのです。夜をただわけもなく怖がる、そんな極端なときにしか感じないたぐいの〈危険〉です。思い出せば、道を歩くみなさん真っ青な浮かない顔で、何かの前触れだとか、これから先のこととかささやくのですが、どなたもわざわざ繰り返したり、聞いたことにうなずいたりはなさいませんでした。国中はこれからとんでもない罰を受けるかのようで。星空の奥の深い闇から吹き流れる冷ややかな風に、人は暗くうら寂しいところで震えていました。四つの季節がめぐるなか、悪魔のような異変が起こる――時は秋で、暑さがいつまでも引かず、誰もが胸に抱くのです。この世界、いえもしかするとこの宇宙は、もう暴走するだけではないのか。わたしたちの知る神さまも、神さまの天候を操る力も、あるいはあずかり知らぬ力も、もはや及ばないのでは……。
 そんなときです、ニャルラトホテプがエジプトからきたのは。何ものなのか誰にもわかりません。ただ古代エジプトの血族とかで、ファラオによく似た顔立ちでした。農夫のみなさんは目にするやひざをつきますが、わけは本人にもわかりません。あの方は言うのです、われは二千と七〇〇年の闇から目覚めけり、われはこの星ならぬ地よりみことのりを預かれりと。文明の進んだこの地によみがえったニャルラトホテプは、暗い髪の毛、くびれた身体の、黒いお方――いつもガラスと金属の不思議な器具を頼りにしては、それをもっと不思議な道具にくっつけて。あの方の話には、科学のことが多く――電気学とか心理学とか――そのあとに力を見せつけられるのです。それで目の当たりにした人はみな言葉をなくして、たちまちその名がとどろくようになりました。人は隣の者にニャルラトホテプを見に行けと薦め、震え上がるのです。やがてニャルラトホテプの行くところに安らぎはなくなります。だって、深い夜に悪夢の叫びがこだまするのですよ。悪夢にうなされることがみんなの悩みになるなんて、そんなの今までなかったのに。こうなると、いくら賢い方でも、いっそ深い夜に眠るのを禁じてくれればと願うしか。そうすれば、街に悲鳴が満ちて、青く哀れむ月が思い悩むこともなくなり、ただ橋の下、緑の水面みなもに、病める空の下、崩れた塔に、光をたゆとうだけとなりましょう。
 思い出すのは、ニャルラトホテプがわたしの街――大きく、歴史もある、犯罪の絶えない恐ろしい街――にやってきたときのことです。友人からあの方のことをうかがって、そのお話が、ぞくぞくするほどの魅力があり、惹かれるのだとか。わたしも、その謎の奥に何があるのかと胸を突き動かされまして。友人が言うには、わたしがどれだけ想像をたくましくしても、それ以上の怖さで、忘れられないというのです。真っ暗な部屋のスクリーンに投影されるものは、ニャルラトホテプをおいて誰にも口に出せない予言であり、ふとつぶやいた言葉で、みんな開かれるというのです。これまで目に浮かぶだけで、決して開かれたことのないものが。またこんな噂もありました。ニャルラトホテプに会った者は、誰も見たことのない光景を目にすると。
 それは秋の暑い日のこと、ニャルラトホテプに会おうと、落ち着きのない群衆とともに、わたしは一夜を過ごしました。息苦しい夜を抜けて、終わりのない階段を上り、息詰まる部屋へ。そして見たのです、スクリーンに投影されたのは、廃墟、そのなかの、頭巾をかぶった人影。それを崩れた石碑の後ろから、邪悪な黄色い顔がいくつものぞいていて。そして次に、世界が暗闇くらやみと戦う光景。敵は宇宙の果てから押し寄せる破滅です。光を弱め、冷たくなっていく太陽、その周りをめぐりながら、この世界がもがく。その瞬間、集まった人たちの頭上で火花が飛びました。みなさん驚いて、髪の毛は先の先まで逆立ちましたが、なおも映像は、言いようもないほどグロテスクなものへと変わり、人々は頭を抱えます。そこでわたしは、他の方よりも落ち着いてまともに考えもできましたから、「まやかしです」「ただの静電気です」と、そのようなことを震えながらも、ぼそぼそと口に出したのですが、……ニャルラトホテプはわたしたちをみな外へ叩き出してしまって。みんな眩暈めまいに襲われながらも階段を下り、むしっとした、人のいない真夜中の通りへ出て行きました。わたしは声を上げて叫びます。怖くない、こんなもので怖がりません! すると、他の方も自分の心を落ち着かせようと声を上げました。みんなでお互いに確かめ合うのです、この街は何も変わってなどいないし、まだちゃんとここにある。すると通りの電灯がチカチカしだしたので、みんなで何度も何度も電力会社の文句を言い、自分たちが変な顔をしていると笑いあいました。
 あのとき、確かにわたしたちは感じたのです。緑がかった月から降りてくる何かを。だって、月の光を当てにし始めた途端、わたしたちは知らず知らず、考えもしないのに不思議と列を作ってしまっていて、当てもないはずなのに、どこかへ向かうかのようで。ふと舗道の方に目をやると、伸びた草で石がずれていて、さびたレールで何とか路面電車の線路がわかったと思ったら――そのあとに見えた、列車の車体は、ただぽつんと、窓も割れ、荒れ放題、ほとんど横倒しのありさまで。みんなで地平線のあたりに目をやると、川岸にあったはずの三つめの塔も見あたらず、二つめの塔も頂上部分が崩れていると、その影からわかりまして。やがて、わたしたちはいくつかの細い列に分かれました。それぞれが別々の方へ引っ張られるような感覚で。ひとつは左の狭い路地に入り、姿を消しました。あとに聞こえたのはただおぞましいうめき声だけ。もうひとつは雑草の生い茂る地下鉄の入り口へ列をなして下っていきました。狂ったかのように、高く高く笑いながら。わたしのいる列は、ひらけた場所へと吸い寄せられていって、そしてふと、暑い秋のはずなのに、寒気を感じたのです。それもそのはず、暗い荒野の土へと踏み出したわたしたちへ、周りから、月の光を禍々しく照り返したのです、気持ち悪い雪が! その雪はなぜか足跡ひとつなく、ある方だけは吹き払われていて、その場所に暗い穴がありました。白い雪に囲まれて、いっそう黒々として。そして、あまりにもか細く見えるその列が、穴のなかへ夢見心地で、一歩一歩、ゆっくりと踏み出していくのです。わたしは踏みとどまろうとしました。黒々とした穴に、その周りで雪が緑に光っているのです、わたしには恐ろしくて。一緒にここまで来たみなさんも、どうやら泣きわめきながら消えてゆかれたようで。ですがあらがう力も出てこないのです。先に行った方々から招かれるかのように、わたしは、大きな雪だまりのあいだを、なかば流れるように、ふるえながら、おびえながら、想像もできない、何も見えない、その穴のなかへ吸い込まれていって――
 ふるえて悲鳴を上げていたのか、おかしくなって押し黙っていたのか、唯一知る神さまたちももうおりません。我を失い、感じるままのひとつの影が、手ならぬ手のなかでもだえ苦しみ、真夜中をいくら過ぎても、何も見えずにただ回るだけ。あたりには腐りゆく生き物、死んだ世界の死体だらけの、かつて街であった傷跡、死者をおさめる風が青ざめた星空を吹きぬけ、星々がわずかに輝く。あらゆる世界を超えてきた、化け物じみた何かの、ぼんやりとした幻。けがれた寺院の半分だけ見える柱は、空間の下の名状しがたい岩を足場として、光と闇の全域を超えた、めくるめく何もない空に向かってそそり立っています。そしてこの宇宙のおぞましい墓場にこだまする、くぐもる狂おしい太鼓のおと、高く単調にかすれゆくこの世ならぬ笛の。その源は、時の彼方の、人知を超えた、光なき複数の部屋。やがて呪わしい太鼓と笛のに合わせ、そこでゆるやかに、無様に、そして愚かしく踊るのは、つつやみの、巨大な究極の神々――目もなく声もなく、心もない怪物の塊、そいつが化けて現れたものこそ、ニャルラトホテプなのです。





翻訳の底本:H.P.Lovecraft (1920) "Nyarlathotep"
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
   2012(平成24)年6月4日翻訳
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翻訳者:大久保ゆう
2014年3月23日作成
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